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2月24日 加藤信也 神父

February 25, 2019

2月24日 年間第7主日

 

■ルカによる福音書 6:17、20-26

(そのとき、福音朗読 ルカによる福音書 6:27-38 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

 

■加藤神父さまのお話

 今日の福音朗読のページを開いてみると、「敵を愛しなさいという」というタイトルがつけられています。敵が近くにいるなら、早く逃げたほうがいいんじゃないか。ひょっとして勝そうな相手なら、早く攻撃した方がいいぞ。……そんなふうに考えるのが、この世の常、といったところなのかもしれません。

「教会に通っている人たちみんな、難しい顔をしているみたいですね」と、信者でない人から言われることがあります。その理由の一つが「敵を愛しなさい」という教えかも知れません。

 

敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。

 

 これらの言葉が一体誰によって語られたのか、誰に対して語られたのかを振り返ってみたいと思います。これらの言葉は、私たち自身に対して向けられたものです。ではそれを受けて、私たちはどんな風に感じるでしょう。 私たちは「敵を愛せ」というイエスの言葉に不満を漏らします。「大切な人を愛するのと同じように、敵とまでいかなくても、職場や学校や社会で関わりを持つすべての人を愛することは難しい」と。

 価値観という言葉があります。何を大切にするのか、何を中心に置くのか。神の価値観と、この世の価値観は異なる。観福音にもそれははっきりと表れています。先週の日曜日の福音には、「幸いと不幸」というタイトルがつけられていました。そこには何を幸せだと感じるか、何を不幸だと感じるか、具体的な言葉が並んでいます。貧しい人、今飢えている人、泣いている人を、私たちは幸せだと思えるでしょうか。今、富んでいる人は不幸だ、笑っている人も不幸だという神の価値観と、人の価値観は正面から対立するもののようです。

 ギリシャ語に「アガペー」という言葉があります。「神の愛」という風に訳されますが、それを実現することは、人には非常に難しいというわけです。誰かを愛する。何かを愛する。一体何を大切にするか、具体的な誰かや何かを思い浮かべてください。「私は何でこの人のことが好きなのか。親切にしてくれるから、優しくしてくれるから」。それはつまり、愛する理由があるということですね。「私はこの食べ物が好きだ、それ食べるととってもおいしいと感じる」。自分にとって好ましい要素なければ、人はその食べ物を好きにはなりません。この世の価値観とは、このような考え方だと思います。一方、「神の愛」はというと、我々の目から見れば愛する理由など全くないものを愛する。「敵を愛しなさい」という今日の(福音朗読箇所の)タイトルが、それをよく表しています。

 イエスは私たち人間の弱さや、重い現実を承知の上で呼びかけています。私たちのこと全く知らないわけではない。人間の弱さをよく分かっていた。イエスは愛しました。しかし愛した人たちによって捕らえられ、裁判にかけられて死刑囚となり、十字架につけられて殺さました。そのイエスが私たちに、「敵を愛しなさい」と言っている。イエスは十字架の上で釘付けにされた後も、「あの人たちを許してやってください。私を殺すこの人たちを許してやってください」と神に祈っています。人の目から見ればお人好しの祈りです。何でそこまで敵対する人、自分を裏切る人を愛さなければならないのか。

 繰り返しますが、「敵を愛しなさい」という言葉は、私たちへ呼びかけです。だからこそ私たちは、こういう言葉を聞くと考え込んでしまう。眉間にしわを寄せてしまいます。確かに良い関係を持てない人たちいます。愛し続けることなどできない。でも頑張れば、一日くらいなら、そんな思いを持つことができるかもしれない。一日が無理なら今日、半日が無理でも一時間ならどうだろう。受け入れます。愛します。そうする価値があると思います。どうしてか。それはイエスが私たちに語った言葉だから。

 イエスは、罪人を招くために来たと言います。では罪人はどこにいる誰か。私たち一人ひとりです。 私たちは「キリスト者」という言葉をよく使います。じゃあ、キリスト者というのはどういう人たちなのか。「キリスト者っていうのは、悪いことしない人達でしょ。洗礼を受けているのにあの人は何であんなことをするんだろう。なんであんなひどいことを言うんだろう」。……そんなふうにして隣人を非難する前に、我々をこの教会の交わりに招いてくださっている方のことを思い起こしたいと思います。無論、今ここで、皆さんに向かってこういう風に話している私もキリスト者で、もちろん罪人です。そして、キリスト者というのは悪いことをしない人ではなく、罪人であるにも関わらずイエスの呼びかけに耳を傾けようとする人、そしていつかはきっと、御心にかなう生き方をしたいという望みを捨てない人のことではないでしょうか。

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祗園カトリック教会の特色

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