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082-874-5198

広島県 広島市安佐南区 祇園 3-6-1

hikari@gionkyokai.jp

当教会は、イエズス会管轄の修道会教会です。教会敷地内には、純心聖母会広島修道院、清心幼稚園が有ります。

1949(昭和24)年、日本と同じように戦後の復興に苦労するドイツの人たちから篤志を得て最初の聖堂が建てられました。1963(昭和38)年、聖霊に捧げて献堂された現在の聖堂は2013年、献堂50周年を迎えました。

祗園カトリック教会の特色
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2月17日 加藤信也 神父

February 17, 2019

2月17日 年間第6主日

 

■ルカによる福音書 6:17、20-26

(そのとき、イエスは十二人)と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、(来ていた。)さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

 

◾️加藤神父さまのお話

  今日の福音はルカの6章から取られています。「貧しい人々は幸いである」という言葉を聞いただけで、マタイ福音書5章の「山上の説教」を思い浮かべる方も沢山おられるでしょう。マタイの「山上の説教」と今日のルカの話は、よく似ています。しかし見方を変えれば、異なる点にこそ意味があるとも言えるでしょう。

 異なる点のひとつは、マタイが幸いな人についてだけ語っているのに対し、ルカが前半で、こういう人は幸せです、この人も幸せですと語った後、この人は不幸だ、幸せではない、と不幸な人についても言及していることです。もう一つの違いは、マタイ福音書では「山上の説教」と言われる通り、山の上でイエスが語った言葉として記されているのに対し、ルカ福音書は「そのとき、イエスは十二人と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」と状況を説明しているところです。

 今日の朗読されたルカ福音書の少し前の箇所に、洗礼者ヨハネが登場します。そこでは旧約聖書のイザヤ書が引用されています。

 

 主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲った道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを見る。

 

 救いがやってくるその時には、すべての山や丘がなくなる。道も平らになるというわけですね。高いもの、低いものがなくなる。私たちの間にある様々な格差がなくなる。すべての人が平等になる。これが、ルカが考えた救いであり、そして神がこの世に対して望むもの、計画しているもの、というわけです。 聖書の世界では、山が特別な場所として描かれています。ルカは、神と出会う場所とされる山の上ではなく、「平らなところ」で語ったと書くことで、今日の福音にあるイエスの言葉が、神との語らいのためにではなく、あくまでも我々一人一人のために語られたものであることを伝えようとしていると考えられます。

 

 ここにおられる皆さんの中には「私はこういう理由で洗礼を受けました」という方もあれば、「幼児洗礼で、知らないうち洗礼を受けました」という方もおられるでしょう。いずれにせよ、なぜ洗礼を受けたのか、その理由を言葉にするならば、「救い」ということになるんだと思います。救われることが幸せだ、ということでしょう。そこで忘れてはならないのは、「救いの時」は終わりの時でもあるということです。キリスト教の世界観は、この世界がいつまでも続いていくとは考えません。誕生したものには必ず死がやってくる。始まったものには終わりがやってくる。神によって作られた被造物だけではなくて、宇宙・森羅万象すべてのものに終わりがある。この終わりのことを終末と言います。終末には様々な印が現れる。それが現れた後に、最後の審判が行われる。マタイ25章によれば最後の審判で、あるものは選ばれて神の国を受け継ぐ、またある者は永遠の火に入れられる。その基準となるのは、飢えている人に食べさせる、旅人に宿を貸す、病気の人、囚われ人を見舞うなど、非常に具体的な行いです。我々が信仰の重要な一部だと考えるようなことがら、例えば、神様を大切にしてしました、信じました、告解しました、ミサにあずかりました、といったことは何も出てきません。

 最後の審判では、右に分けられる人だけではなく、左に分けられる人たちもいます。この人たちは不幸だ、ということになるのでしょう。そして今日の福音書でも、幸いだけではなくて不幸についての考えが述べられています。ルカ福音書の幸福論というのは、他のどの福音書よりも厳しい響きを持っていると言えるように思います。遠ざけたいものを受容することが幸福だ。我々が「これこそ幸せだ」と感じるようなもの、それは不幸だ。ある意味では我々の価値観に対して根本的な問いかけを行っていると言ってもいいでしょう。

 全ての人に命の終わりがあり、誰もがそれを免れることはできません。善人の上にも悪人の上にも太陽を昇らせ、雨を降らせる神は、全ての命についても全ての人を平等に扱います。一方で私たちが生きているこの世界にはそのような平等というのはどうも存在していないようです。金持ちもいれば多くの貧しい人もいる。日に3度食事をするのが当たり前の人もいれば、日毎の糧を今日もお与え下さいと祈らざるを得ない多くの人々もいます。持てる者と多くの持たざる者が混在して生きているのが、この世界の現実です。今日の朗読箇所は、このような状況に対して大きな疑問を提示しているようにも思われます。

 マタイの「山上の説教」では、「その人たち」という言葉が繰り返されます。これに対してルカ福音書のイエスは「その人たち」ではなく、「あなたがたは」と呼びかけます。どこかの誰かに対してではなく、「今、私の目の前にいるあなたがたは」と、より直接的に私たち一人ひとりに神の価値観を示しているように思われます。

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