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082-874-5198

広島県 広島市安佐南区 祇園 3-6-1

hikari@gionkyokai.jp

当教会は、イエズス会管轄の修道会教会です。教会敷地内には、純心聖母会広島修道院、清心幼稚園が有ります。

1949(昭和24)年、日本と同じように戦後の復興に苦労するドイツの人たちから篤志を得て最初の聖堂が建てられました。1963(昭和38)年、聖霊に捧げて献堂された現在の聖堂は2013年、献堂50周年を迎えました。

祗園カトリック教会の特色
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12月25日 加藤信也 神父

December 26, 2018

12月25日 主の降誕(日中)

 

■ヨハネによる福音書 1:1-18

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。《神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく光について証しをするために来た。》その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。《ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。》

 

■加藤神父さまのお話

 毎年、主の降誕の日曜ミサには、ヨハネ福音書の冒頭の箇所が朗読されます。聖書に含まれている4つの福音書にはそれぞれ、シンボルがあります。ヨハネ福音書はまず、父である神と「ことば」である子についての格調高い文章で始まり、その直後に洗礼者ヨハネについて語ります。つまり、まず、天について語り、続いて地について語る。天高く舞っていた鷲が目標を定め、地上に急降下する、そんなイメージから、ヨハネ福音書は鷲がシンボルとされています。

 高いところから低い所へと向かっていく福音、それはまさにイエスの生涯でもあります。神から生まれ、低いところに下ったイエスを、人々は受け入れることができなかった。それはなぜでしょう。「神から遣わされるメシアは当然、我々の王としてやってくる、我々の上に立つ人物だ」。人々にはそんな思いがありました。それに対してイエス自身は何と語ったか。「仕えられるためではなく、仕えるために来た」。この言葉通り、イエスは人々に仕えるために、この世の最も低いところに活動の場を定めました。生涯、低いところにいたイエスが生涯で一度だけ、高いところにあげられた。それは十字架です。そのようにしてイエスは死を迎えました。

 死を迎えることを私たちは「帰天」、天に帰ると言います。確かにイエスは神のもとから来た。そして復活し、神のもとに帰っていきました。私たち一人ひとりも同じです。私たちの命は神から与えられたもの、天から来たものです。その天から与えられた、たった一つの命を、いつの日か神に返し、天に帰っていきます。天に帰っていくことを私たちは、「天に受け入れられる」と考えます。カトリックでは、この世の命を本当の命とは考えません。それは仮の姿であり、私たち一人ひとりがこの世で仮の命を生きていると考えます。では本当の命はいつ、どのような形でやってくるのか。それは、私たちがこの世の命を終えた後、神のもとに迎えられるところから始まっていきます。その命は、返す必要のないものであるといわれます。

 この世の人生を終えて天に帰っていく、それは飛行機の離陸、滑走路を走りながら、大空に向かっていくのに似ているかも知れません。滑走がうまくいけば、この世の人生をうまく生きることができれば、天の父のもとへの飛び立っていける、というわけです。では、うまく飛び立つための秘訣はあるのか。それは「身軽である」ということだと思います。飛行機に乗る時には、荷物に重量制限があります。少しでも身軽であれば、より飛び立ちやすくなるはずです。「狐には穴があり、空を飛ぶ鳥には巣がある。だが人の子には枕するところもない」。イエスの生涯はまさに、この言葉通りだったようです。何も持たない。実に身軽なイエスの姿を福音書は伝えています。

 

 今私たちが過ごしているクリスマスは、プレゼントを贈り贈られる時でもあります。イエス自身が、神から私たちへのプレゼントです。プレゼントは、それを受け取る人に喜びを与えるものです。最もいいプレゼント。それは贈る側にとって最もいいもの、大切なものを誰かに与えることだともいえるでしょう。神は、かみにとって最も大切なもの、「ひとり子」をこの世に贈りました。これ以上のプレゼントはないでしょう。

 プレゼントを贈れば、贈った人の手は空になります。つまり、贈り主は身軽になります。神が最も大切なものを私たちにプレゼントしたように、イエスも最も大切なもの、命を私たちにプレゼントしました。もっとも聖書によれば、イエスが手放したものは命だけだはありません。身に着けていた衣服もすべて、兵士たちの手に渡りました。文字通り「身軽」になり、何も持たない、つまりは自らを「空」にして、天の父のもとへと帰っていきました。イエスは言います。「金持ちが天の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がたやすい」。実に不思議な言葉です。イエスが金持ちを嫌った、というより、金持ちが救いから遠いことを教えている言葉です。神の国に飛び立つには、富はあまりにも重すぎるようです。救いというのは、誰もが望むものです。神の国、天の国に受け入れられることを強く望む、そして、救われることを拒みはしません。

 今日生まれたイエスは、公生活の始めにこう呼びかけました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。非常に短いメッセージです。ある意味ではこの短いメッセージこそが、本当に私たちに伝えたかったものかも知れません。身軽になるというのは、ただ「モノ」を手放すというだけではないでしょう。悔い改めの実りとして、私たち一人ひとりが心の中に持つ重荷を、罪をおろしていく、そこから自由になる、そしてこの地上ではなく、天に宝を積む歩みを進めることが、一人ひとりに求められています。

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