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082-874-5198

広島県 広島市安佐南区 祇園 3-6-1

hikari@gionkyokai.jp

当教会は、イエズス会管轄の修道会教会です。教会敷地内には、純心聖母会広島修道院、清心幼稚園が有ります。

1949(昭和24)年、日本と同じように戦後の復興に苦労するドイツの人たちから篤志を得て最初の聖堂が建てられました。1963(昭和38)年、聖霊に捧げて献堂された現在の聖堂は2013年、献堂50周年を迎えました。

祗園カトリック教会の特色
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10月28日 白浜 満 司教

October 29, 2018

10月28日 年間第30主日

                

 

■マルコによる福音書10:46-52

 

 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

 

■白浜司教さまのお話

 2年ぶりの公式訪問になります。このような機会を与えて頂いたことを、心から感謝申し上げます。今日、堅信を受けられる17名の方々、そしてここにお集まりの皆様に、今日の福音朗読にまつわるお話をさせていただきたいと思います。

 今日の福音(マルコ10.46~52)には、イエス様が行われた最後の奇跡が記されていると言われます。イエス様はこの後、エルサレムの上り、苦しみを受け、十字架につけられます。その途上、エリコに立ち寄った時、物乞いをしている盲人と出会います。

 

 先日、ある新聞で見つけた投書を、皆さんにご紹介したいと思います。千葉県の女性が書かれたもので、「目の見えない女性を見守った神様」というタイトルがついていました。

 

『先日、ある構内で、私が電車を降り、階段を下りきって、「やれやれ」と思った時、背後を行く年配の男性が突然、両手をひろげ、前を行く目の不自由な同世代の女性を追いかけました。女性は煩雑であろう音の中で、必死に歩く方向を考えていました。男性は女性の後ろから、少し離れて見守ります。周りの人に分かるように、女性を守るように両手を広げて、女性はおぼつかない足取りで、白い杖を小さく叩きながら、改札口に近づきました。男性の後ろにいた私も、女性を励ましたくなりました。女性はポケットからSUICAを取り出し、改札を無事に通過。男性も同じ方向へ行くと思いきや、サッと反対へ。人ごみの中に消えて行きました。たった5分ほどのことでしたが、清々しさを覚えました。(※編集により中略)男性は、微笑みながら去りました。女性にそのことを教えてあげたいな、と思いました。神様に思えた男性に、「お疲れ様」と言いたくなりました。私は耳が不自由ですので、私が親切にされたようで、うれしくなりました』

 

 たくさんの人がいる中で、目の不自由な女性が、どこに行けば改札口にたどり着けるのか、おぼつかない足取りでさまよっていた。男性はその女性の後ろで両手を振って、その女性のために道をあけてくれるよう、周りの人たちの合図を送った。女性は、男性には気づきません。でも無事に改札口にたどり着きました。男性は黙って去っていきました。

 皆さん、このお話からは、私たちのライフワークに関わるメッセージがくみ取れるように思います。背後で私たちを導いて下さる神様に、気づいていますか。皆さん、目が開いていますか。イエス様は、すべての人を幸せに導くために、ご自分の命を捧げようと意を決してエルサレムに向かっていきます。苦しむため、死ぬために、エルサレムに向かっていきます。みんな(弟子たち)は、イエス様が苦しむこと、死ぬことを望んでいません。苦しむこと、死ぬことを通して、神様が私たちを導こうとされていることに、目が開かれていません。

 これから堅信を受ける皆さん。洗礼を受けてから今までに、皆さんの目は次第に開かれてきていることと思います。でもまだ、神様の導きがはっきりと見えるわけではありません。先ほどご紹介した投書のように、神様は見えないようななさり方で、私たちに気づかれないような形で、私たちの歩みを導いて下さっているように思います。苦しみの中にも、神様が「進むように」と望まれている道もあります。苦しみの中で私たちは、神様が見えなくなってしまう時があります。そんな時に、「心の鬩ぎ(せめぎ)」を大事にしていただきたいと思います。「主よ、憐れんで下さい」。これからの人生の日々を、「神様、私はあなたの導きが、はっきりと見えていません。私は霊的な意味で、未熟です。あなたの導きが届くように、あなたの声が聞こえるように、あなたの後に従って歩むことができるように、助けて下さい」とことが心で叫びながら、歩んでいただきたいと思います。

 イエスに目を開いていただいた盲人は、「なお道を進まれるイエスに従った」と記されています。私たちを救うために、苦しみに向かって前に進まれるイエス様に従って歩んだのです。ここにいる(堅信を受け)皆さんは、前よりも聖霊の導きを力強く感じられるようになります。どうか、たとえ苦しい時、困難なことがあったとしても、その中でも神様が私たちを導いて下さっていることを、深く味わっていただきたいと思います。

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