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082-874-5198

広島県 広島市安佐南区 祇園 3-6-1

hikari@gionkyokai.jp

当教会は、イエズス会管轄の修道会教会です。教会敷地内には、純心聖母会広島修道院、清心幼稚園が有ります。

1949(昭和24)年、日本と同じように戦後の復興に苦労するドイツの人たちから篤志を得て最初の聖堂が建てられました。1963(昭和38)年、聖霊に捧げて献堂された現在の聖堂は2013年、献堂50周年を迎えました。

祗園カトリック教会の特色
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8月26日 加藤信也 神父

August 27, 2018

8月26日 年間第21主日

                

■ヨハネによる福音書 6:60-69

(そのとき、)弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。

 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」

 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

 

■加藤神父さまのお話

 イエスは安息日には会堂に入り、人々の前で聖書を朗読し、人々に話をしたことが福音書に書き残されています。イエスならきっと、いつも人々を感動させるすばらしい話をしたことでしょう。

「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える」 (イザヤ55.10)、これはイザヤ書の言葉ですが、イエスの語った言葉も同様に、人々の心をつかみ、その後の人生に大きな影響を与えたに違いないでしょう。その証拠に、群集とまで言われるほどの人々がイエスを追い求めました。 ところが、今日の福音は異なります。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」、というのが人々の反応でした。

 公生活の初めにイエスはガリラヤで宣教し、これは成功したと言われています。そして、今日の福音は、ガリラヤでの活動の最後の場面です。パンの増加の奇跡に興奮した群集はイエスを追い求め、しかしイエスは、パンと魚によってではなく言葉によって群集と向き合います。

 

「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」。

 

 これを聞いた群衆は、イエスから離れ去っていきました。我々の注意を引くのは、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」という一文です。それが、イエスが与えるパンによって満腹し、イエスを捜し求めた人々の反応であり、イエスから直接教えを受け、何度も奇跡を目の当たりにした弟子たちの反応でした。 全財産や家族までも後にして、イエスに従った人たちもいたことでしょう。しかし、ほとんどの人々が離れていき、後に残った者はわずかでした。

 

 今日の福音は、ガリラヤでのイエスの宣教の結びであると同時に、「いのちのパン」についての長い説教の締めくくりの部分です。イエスの言葉は皆の喜びとなったどころか、多くの弟子にとってはつまずきとなりました。そしてイエスは残った弟子たちに問います。「あなたがたも離れて行きたいか」。

 

 群集や弟子たちには得たい物、欲しい物があり、イエスにも彼らに与えたい物がありました。それが一致する間はともかく、そうではないと分ったとき、人々はイエスを批判し、離れ去って行きます。この教会共同体にも、新しく仲間となって歩みを共にする人たちがあり、一方でここを去って行く人たちもいます。自分が望む物が与えられないから離れ去る。それは、一人よがりの信仰、神ではなく「自分」を主人公とした信仰と言えるでしょう。

 

 今日の福音は非常に難しい場面ではありますが、あるいは、イエスを宣べ伝えようとする人には大きな慰めとなる個所なのかもしれません。あのイエスでさえ、こんな有様でした。みじめさを味わいました。神について宣べ伝えるのは決してやさしいことではありません。 そして、ペトロにとっては困難のときが信仰宣言の機会ともなりました。

 イエスの問いにペトロは、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と答えています。あるいは、心の中では信じることに困難を感じながらも、ペトロは必死の思いでこれだけを語り、イエスのもとにかろうじて留まったのかもしれません。

 この場面から受ける印象は「痛み」です。「あなたがたも離れて行きたいか」と問うイエスの心にも、問われる側の弟子たちの心にも大きな「痛み」があったに違いありません。

 私たちも、毎日の生活の中で様々な問題や困難に出会います。それらを経験し、投げ出そうとするたびに、イエスから同じように問われています。「あなたも離れて行きたいか?」諦め、絶望するのは人の常です。しかし、これほど弱く躓きやすいわれわれにも決して絶望せず、我慢強くじっと待っている、それが私たちの神であることを忘れないで下さい。

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