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082-874-5198

広島県 広島市安佐南区 祇園 3-6-1

hikari@gionkyokai.jp

当教会は、イエズス会管轄の修道会教会です。教会敷地内には、純心聖母会広島修道院、清心幼稚園が有ります。

1949(昭和24)年、日本と同じように戦後の復興に苦労するドイツの人たちから篤志を得て最初の聖堂が建てられました。1963(昭和38)年、聖霊に捧げて献堂された現在の聖堂は2013年、献堂50周年を迎えました。

祗園カトリック教会の特色
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4月22日 加藤信也 神父

April 27, 2018

4月22日 復活節第4主日

                

■ヨハネによる福音書 10:11-18

 (そのとき、イエスは言われた。)「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

 

■加藤神父さまのお話

 世界召命祈願の日である今日の福音朗読では、羊飼いと羊のたとえ話が語られました。羊飼いは、羊を守らなければなりません。オオカミや強盗から羊を守る。羊飼いは、まさに命がけの仕事です。そのために羊飼いが持っているものは何か。1本の杖(つえ)、これだけです。この1本の杖は、カトリック教会にも残っています。祇園教会でも今年の秋、堅信式が行われますが、その時、きっと司教様は、「バルクス(牧杖)」を持ってこられるでしょう。

 召し出し、召命という言葉があります。狭くは、神様からの呼びかけを感じ、司祭・修道者の道を歩むことを指しますが、実は全ての人に、神様からの呼びかけがある、召し出しがある、とも言えます。この召し出しには原則があります。その原則とは、呼びかけるのは常に神である、ということです。我々人間にできるのは、呼びかけに応えるか、拒むのかを選択することだけ。応えれば、召し出しが成立し、拒めば成立しない。これが大原則だと思います。 この聖堂にいる人たちのほとんどは、カトリックの洗礼を受け、信仰生活を送っています。この信仰生活には、「主人公」がいます。誰が主人公か。我々ではなく、神です。自分を相対化する、自分を「主人公」にはしないのが、信仰の世界です。ところがこの世の中には、「私が、私が」と自己主張する場面が多々見られます。自己主張しなければ、望むものが何も手に入らない、というわけです。しかし信仰の世界というのは、私が人生の「主人公」でありながら、その「主役の座」を誰かに、何かに、明け渡すものです。例えば、神様に明け渡す。明け渡した座に、もしかしたら神様が座って下さるかも知れない。あるいは神様が、「私ではなく、あなたの隣人に座ってもらいなさい」と言われることもあるでしょう。

 私はカトリックの司祭として、祭服を着て皆さんの前に立って、話しています。では祭服を着ていれば、召し出しを生きているのか。外面的にはそうでしょう。しかし召し出しは「資格」ではありません。例えば運転免許を取れば、その日から好きな時に車に乗れます。ところが召し出しは、そうではありません。言ってみれば「生もの」「水物」です。水は流れている間は大丈夫でも、流れが止まればよどみ、腐ってしまいます。また召し出しは、第三者が決めるものではない。他人から「あなたは司祭になったらいい、シスターにならない?」と言われて司祭・修道者の道を歩むというのは、召し出しの本来の姿ではありません。決めるのは、その人自身です。私はイエズス会に入る時、4人の神父さんの面接を受けました。「イエズス会に入りたい、司祭になりたいというのは、あなた自身の望みですか。それとも誰かがあなたに勧めましたか」。この問いに私は「はい、私自身が決めたことです」と答えました。そうでなければ、私は受け入れられていない。これが召し出しです。決して、第三者の背中を押されて選択するようなものではない。もし誰かに背中を押されて司祭になりました、ということがあるならば、押した人は、その人の背中を一生、押し続けなければならない、ということにもなるでしょう。信仰、あるいは召し出しの難しさは、このあたりにも一因があるように思います。 神からの呼びかけがあるにもかかわらず、「主人公」の席を譲り渡すことができない、逆にしがみついてしまう。あるいは自分の望みではなく、誰かの望みを実現させようとしている、そんなこともあるでしょう。イエスは、こんな言葉を語っています。「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために来た」。

 「一番先になりたい者は、すべての人の後になりなさい。すべての人に仕える者になりなさい」。司祭をやっていて、いつも問いかけられる言葉です。今日の私の召し出しはどうなのか、いつも振り返ってみなければ、と思います。 今日の福音でイエスは、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と語っておられます。私たち羊のために命を捨てる。このイエスの示した愛が、あれほど弱かった弟子たちを世界中に宣教に送り出し、さらにほとんどの人たちが殉教していくまでに変えてしまいました。それが弟子たちにとっての成長でした。愛されること、大切にされることによって、大きく成長していった人たち。それが初代教会へと伝えられ、現在の教会にも生き続けているはずです。愛された人、大切にされた人は、周りの人たちを愛すること、大切にすることを学んでいきます。きっとそういう人たちのところには平和・喜びが生まれていきます。ミサの中でも繰り返し使われる

 「平和・喜び」という言葉は、これは私たちの信仰の実りを表しています。ミサの最後に司祭の「行きましょう、主の平和のうちに」という言葉によって、私たちは外の世界へと送り出されます。教会は「ずっとここに留まってください」とは言いません。「行きましょう」。皆さんは送り出されています。「平和と喜びを持って外に出てください。それを広めてください」というわけです。それが福音宣教です。 たった一人の人のために、その場の雰囲気が壊されていくことがあります。一方で、たった一人の人がいることで、その場の雰囲気がパっと明るくなる、「この人が来てくれた。今日の集まりはきっと、いいものになるだろう」と思える、そんな人がいることも確かです。みんなはきっと考えるでしょう。「この人はなぜ、いつもこんなに穏やかなんだろう。いつも喜んで生きているんだろう」。そしてその人たちが、「あ、この人は信仰を持っている人なんだ。信仰を生きている人なんだ」と気づいてくれなら、これ以上理想的な福音宣教はないと思います。そのような信仰は、人から人へと伝えられていくものです。

 愛されて、大切にされる人の代表といえば、子どもたちです。ご両親や周りの大人たちから大切にされながら、子どもたちは育っていきます。そのような体験が、今度は周りの人を愛し、大切にできる大人へと成長するための糧(かて)となります。逆に、そのように成長していない大人がいるとすれば、それこそが社会の深刻な問題であると言えるでしょう。人々を愛し、大切にする、そんな大人へと、私たち自身が成長していく。これこそが、我々キリスト者すべてに共通する召命であり、召し出しであると思います。

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