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1月28日 加藤信也 神父

January 31, 2018

1月28日 年間第4主日

                

■マルコによる福音書 1:21-28

  イエスは、安息日に(カファルナウムの)会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

 

■加藤神父さまのお話

 私たちは今日も、主日のミサのために教会に集まっています。こんな、雪の降る寒い日でも、こうして集まっています。同じように、イエスも安息日には会堂に行き、集まった人たちの前で話をしました。会堂、シナゴーグは、ユダヤの人たちにとって、私たちの教会(聖堂)にあたるものと考えていいと思います。

 安息日はユダヤの人たちにとって、とても大切な日です。神さまが天地を創造された時、6日間働いて、7日目は休まれた。これを安息日として守りなさいと言われた。では、安息日は何曜日のことでしょう。我々は日曜日に教会に行きます。しかし安息日は、日曜ではなく土曜日です。土曜日に会堂に集まると、イエスのような立場の人が話をする。ちょうどこの説教のようなものだと思えばいいのでしょう。

 沢山の人たちがイエスの話を聞きました。その反応は、というと、「人々はその教えに非常に驚いた」。みんなびっくりした、というわけですね。話の内容がどんなものだったのかは分かりませんが、それが人々にとって大きな大きな驚きだった。さてその後、イエスは男から、汚れた霊を追い出しました。人々は、またまた驚いた。人々にとってイエスは、まさに「驚きの人」だったのでしょう。

 

 福音書には色々なテーマがありますが、その中心となるのは、「イエスとは誰か」という謎であり、その謎を解いていくのが、私たちの信仰生活である、と言ってもいいかも知れません。我々は一生かかって、「イエスとは一体誰なのか」「この私にとって、イエスとはどういう存在なのか」という問いに、答えを出そうとしていきます。

 「イエス・キリスト」と言いますが、イエスが名前、キリストが名字、というわけではなく、「イエスは、キリストである」ことを意味します。ギリシャ語の「キリスト」は、ヘブライ語の「メシア」に相当する言葉です。「イエス・キリスト」というのは、「イエスはメシアである」という、一つの信仰宣言であると言えます。

 洗礼を受け、キリスト者となる。それから私たちはずっとキリスト者であり続けます。しかし「イエスはキリストである。私にとって、イエスはメシアだ」というのが模範解答であると分かってはいても、私たち誰もが、いつもそのように答えるか、考えるかといえば、決してそうとは限りません。私たちの心は弱いものです。ある時は喜ぶ。でもある時は悲しむ。ある時は非常に力強くいられる。でも悪い状況に陥ると、ぺしゃんこになってしまう。これが私たち一人ひとりの、ありのままの姿だと思います。つまり誰しも、信仰が揺らぐことがある。信仰は移り変わっていく。なぜ移り変わるのか。それは、私たちが生きているからです。我々がいつか、この世を去って行く。その時にはきっと、すべてが動かないものとして決まっていくのでしょう。

 

 今日の福音には、イエスの他に「人々」「汚れた霊に取りつかれた男」が登場します。今日はマルコ福音書の1章が読まれました。まだ始まったばかり。謎解きも始まったばかりです。まだイエスが誰なのかは知らない。だからイエスを見て驚いています。そして今日の福音にはもう一人(?)の面白い存在が描かれています。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫んだ者です。イエスが誰なのか分かっている者、それは「汚れた霊」です。汚れた霊は、最初からイエスの正体を知っている、というわけです。

 自然科学や医学がまだ進歩していた時代、人々は病気や災害を悪霊のしわざと考えました。ならば悪霊を追い出せば、病気は治る、ということにになります。この悪霊は人間より強いので、追い出すことができない。もし悪霊を追い出せる者がいるとすれば、それは神に違いない。イエスが悪霊を追い出したのであれば、イエスの中に神の力が働いている。きっとイエスは神に違いない、という理屈です。古代の人々は自分たちの力の及ばない「否定的な力」の中に、悪霊を見いだしました。私たちから見れば、そんなのは迷信、非科学的なものかも知れません。

 では、現代に生きる私たちはどうなのか。現代でも、理解できないこと、分からないことは沢山あります。分からないことに出会った時、古代の人々は、分からないことをしまうために悪霊という「引き出し」を準備していました。分からないことは全部ここにしまっておきましょう。整理しておきましょう、というわけです。

 一方、現代に生きる私たち、実は、さまざまな汚れた霊に取りつかれています。では現代の汚れた霊とは何なのか。たとえば皆さん、時々、告解をなさいます。その時のことを思い出してみてください。皆さん、どんな罪を告白されますか。私たちが犯す罪には、はっきりした傾向があります。赦しの秘跡を受ける時、いつも思わされるのは、「また今回も、同じ罪を告白しなければならない。私の犯す罪は、これだ。あれも、これも、前回の告解で告白したことと同じじゃないか………」。前回どころか、あるいは10年前20年前にも同じことを言っていたのかも知れません。私たち人間は毎回毎回、異なる罪を犯すわけではない。今日はこの罪、明日は別の罪、あさってはさらに別の罪、というのではありません。毎回毎回、同じ罪を繰り返している、というのが、私たちの偽らざる姿ではないでしょうか。同じ罪から離れられない……。まるで悪霊に取りつかれているかのようです。

 

 イエスが「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。

 

 我々がどんなに努力しても振り払えない悪霊。しかしイエスがただ一言、「黙れ。この人から出て行け」と言うと、悪霊は大声をあげて出ていきました。だとすれば私たちも、(福音書の中で)悪霊を追い出していただいた人と同じように、汚れた霊を追い出してもらわなければならない、そんな存在だと思います。

 今日の福音は短い話ですが、この中に何か「いいニュース(福音)」というものがあるとすれば、それは、たとえ汚れた霊に取りつかれているにせよ、私たち自身が悪霊ではない、という点だと思います。今日の福音の土台には、汚れた霊を追い出してもらえば、その人は心も身体も健康になる、という考え方がある。それは神さまが、我々人間をどのように見ておられるのかを示しています。神さまは人間を「よい者」として作られた。私たち一人ひとりが、神さまから「よい者」として受け止められている。これこそが、一番大きな福音であり、私たちがこの不安定な世の中にあっても、不安ではなく喜びとともい生きていくための源(みなもと)だと思います。

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祗園カトリック教会の特色

当教会は、イエズス会管轄の修道会教会です。教会敷地内には、純心聖母会広島修道院、清心幼稚園が有ります。

1949(昭和24)年、日本と同じように戦後の復興に苦労するドイツの人たちから篤志を得て最初の聖堂が建てられました。1963(昭和38)年、聖霊に捧げて献堂された現在の聖堂は2013年、献堂50周年を迎えました。

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