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11月5日 加藤信也 神父

November 7, 2017

11月5日  年間第31主日 

 

■マタイによる福音書 23:1-12

 (そのとき、)イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

 

■加藤神父さまのお話

 今日の福音朗読の箇所には、「律法学者とファリサイ派の人々を非難する」というタイトルがつけられています。

 旧約聖書は神についてどのように教えたか。決して人々の前には姿を現さない。あるいは顔と顔をあわせて神に出会ったものは命を失う。つまり神とは、会うことのできない存在である。会うことのできない神が一体何を考えているのか、それが具体的に示されたものが律法である。そして律法を守ることが、神に従うことである。これが旧約時代のイスラエルの人々の信仰でした。律法はやがて、非常に複雑なものになってゆきます。すると律法を解釈する人、皆に教える役割を担う人が必要となってきます。これが律法学者です。私たちの社会でいえば、弁護士のような存在とでも言えるでしょうか。

 これに対してファリサイ派は、イエスが登場するよりも150年くらい前に生まれた、ユダヤ教のグループです。彼らは律法を非常に大切にし、律法への忠実、神への熱意を第一に考えました。パウロもファリサイ派に属していました。サウロと名乗っていた当時、彼はイエスの仲間たちを徹底的に弾圧した中心人物でした。しかし回心した後、パウロは殉教に至まで、イエスを宣べ伝えました。この徹底した熱意は、ファリサイ派の一つの特徴でもあったようです。このファリサイ派、数は6,000人ほど。律法学者のほとんどがファリサイ派、祭司の中にもわずかながらメンバーがいたようです。

 面白いのは「ファリサイ」という名前です。これは「分離したもの」を意味する言葉だとされます。「みんなと一緒」というのではなく、「我々は、あなたたちとは違います」というわけですね。神に向けられたはずの熱意が、いつの間にか神と人との間の扉を閉ざすことになってしまった。そして自ら進んで、「分離したもの」となっていきました。一つに集めようとするのがイエス。その対極にいるのが「分離したもの」であるファリサイ派。ですから当然、両者は真っ向から衝突した。それがイエスが十字架につけられて殺された原因の一つにもなっていきます。

 時代はユダヤ教の時代から、キリスト教が誕生する時代へと移っていきました。世界の片隅で始まったイエスの運動は、イエスの死にもかかわらず、世界中に広がる巨大なピラミッドへと成長していきました。私たちの教会も、そのうちの一つです。

 「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない」というイエスの言葉に反して、組織は無数の「先生」たちを生んでいった。上席にある権力の座を追い求める者を生んできた。これも事実です。「仕えられるためではなく、仕えるために」とイエスが語ったにもかかわらず、「仕えられる」ことの心地よさに安住する者も出てきました。そして彼ら(権力者)に仕えたい人々、それは権力の傘のもとにいるのを望む、ということでもありますが、そんな人たちもいます。「集める者」と「離れる者」との対立の構図は、イエスの時代から2,000年を経た今も生き続けていると言えるのかも知れません。

 今日の福音は、律法学者とファリサイ派への批判です。では、今日の福音が律法学者やファリサイ派の人々を前に語られたものかというと、そうではない。語られた先、それは福音朗読の最初に書かれています。「イエスは群衆と弟子たちにお話しになった」。つまり今日の福音は、今から誕生しようとする初代教会を作っていく人たちへの「注意事項」のようなもの、あるいは、あらゆる時代、あらゆる国の教会に向けられた、「こうであってはいけない」「こうはなるな」という警鐘でもあります。

 祗園教会に属する私たちは、誰もがこの教会をよくしたい、と望みます。もしもそれを望まない人がいるとすれば、その人は祗園教会にはふさわしくないと言えるでしよう。あるいは教会全体ではなく、自分だけのこと、自分の属するグループだけのことを第一に考える人も、祗園教会にはふさわしくないと言えます。今日、アメリカの大統領が日本にやってきますが、自分や自分の属するグループだけを第一とする考え方と、「アメリカ・ファースト」、自国大一主義、まず自分が、自分たちが、という姿勢には、あい通ずるものがあるように思います。「ただ熱心になること」が大切なのではありません。「その熱心さは、どこに向かっているのか、何に向かっているのか。その熱意が教会全体の善に向かっているかどうかが問題なのです。自分自身が「主人公」になってはいないか。神の使いやすい道具になっているのかどうか。それが問われます。

 先生と呼ばれるのを好むのは人の常です。しかし、「そう呼ばれてはならない。皆兄弟なのだから」というイエスの言葉を、私たち自身の思いとして信仰生活を送っていけるよう祈りながら、今日のミサを続けましょう。

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祗園カトリック教会の特色

当教会は、イエズス会管轄の修道会教会です。教会敷地内には、純心聖母会広島修道院、清心幼稚園が有ります。

1949(昭和24)年、日本と同じように戦後の復興に苦労するドイツの人たちから篤志を得て最初の聖堂が建てられました。1963(昭和38)年、聖霊に捧げて献堂された現在の聖堂は2013年、献堂50周年を迎えました。

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