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082-874-5198

広島県 広島市安佐南区 祇園 3-6-1

hikari@gionkyokai.jp

当教会は、イエズス会管轄の修道会教会です。教会敷地内には、純心聖母会広島修道院、清心幼稚園が有ります。

1949(昭和24)年、日本と同じように戦後の復興に苦労するドイツの人たちから篤志を得て最初の聖堂が建てられました。1963(昭和38)年、聖霊に捧げて献堂された現在の聖堂は2013年、献堂50周年を迎えました。

祗園カトリック教会の特色
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10月8日 作道宗三 神父

October 10, 2017

10月8日  年間第27主日 

 

■マタイによる福音書 21:33-43

 (そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。) 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。

 『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。

 これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』

だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」

 

■作道神父さまのお話

 秋は「実りの秋」と言われます。色々なものが私たちの食卓にのぼってくる、うれしい時です。

 聖書の中にも、葡萄だとかイチジクだとか、色々な果物が出てきます。特に葡萄にまつわる話はよく登場します。先週に引き続き、今日の福音朗読でも、「ぶどう園」にまつわるたとえ話が語られています。第一朗読、イザヤの預言の中にも、「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑」という言葉がありました。丹精こめて世話したぶどう畑。神はそこに、よい実りが結ばれることを期待されました。それなのに、実ったのは「酸っぱいぶどう」だった。

 

さあ、お前たちに告げようわたしがこのぶどう畑をどうするか。

囲いを取り払い、焼かれるにまかせ

石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ

わたしはこれを見捨てる。

枝は刈り込まれず耕されることもなく

茨やおどろが生い茂るであろう。

 

と、イザヤ書には厳しい言葉が記されています。

 期待し愛した存在であるだけに、それがよい実りを結ばないことに対して神さまは、どれほど悲しまれたことか。イザヤ書は、その嘆きを伝えています。

 

 さて、マタイの福音の「ぶどう園」の話に目を転じましょう。

 今日の「ぶどう園」のたとえ話だけを読むと、何とも救いのない話のようにも思われます。しかしマタイはたとえ話の後に、大事な詩編を付け加えています。ご復活祭によく歌われる詩編です。

 

 家を建てる者の退けた石が

 隅の親石となった。

 これは主の御業

 わたしたちの目には驚くべきこと(詩編118編)

 

 新約の時代に生きる私たちは、この詩編がキリストのことを預言していることを知っています。そしてまたこの詩編が、神さまが特別の愛を持って養い育てた神の民・イスラエルが、実を結ぶどころか、主から送られた預言者を次々に迫害し、そして最後に送られた神のひとり子を亡き者にした、この救いの歴史の意外な展開を物語るものであることも教えられています。

 この(ぶどう園の)たとえば、ユダヤ人の祭司長や長老たちに向けられたものでした。彼らは、このたとえの意味が理解できたのでしょうか。また、主に愛された「ぶどう園」(福音)が、異邦人の手に委ねられるのを、悟ることができたでしょうか。

 今日の福音朗読の続きに、マタイは「祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとした」と記しています。このことが、イエスを捕らえ、裁き、十字架につけるという行動に繋がっていくわけです。

 

 今日の福音朗読を聞いて、2つのことを考えたいと思います。一つは、「ぶどう園」を打大事に大事に世話してきたぶどう園の主人のように、神さまはイスラエルの民をどれほど愛しておられたか、ということです。この奥深い愛、これは親が子を愛する愛、あるいはそれに勝る、もっと奥深い愛について、じっくりと考え味わう機会を、今日の福音は与えてくれます。もう一つは、イスラエルの民が、神さまからそれだけの愛を与えられながら、それを受け入れることができなかったことについてです。では、私たちは果たして、神さまから期待されている実を一つひとつ結んでいるだろうか。一人ひとりの実は、みな違います。人と比べる必要はありません。「あの人にはあんなことができるのに、私にはできない」と思うこともあるでしょう。でも、あなたにはできることがあるはずです。神さまが望んでおられること、神さまが、実を結んでほしいと望んでおられることがあるはずです。果たしてその(実のなる種や苗を)植えるように、受け取っているでしょうか。

 ヨハネ福音書15章に、美しい、ぶどうのたとえがあります。

 

 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。

 

 実を結ばない枝は、切られて焼かれてしまう。そういう話も、イエスはなさっておられる。私たちはそのことも、思い出さなければならないと思います。実を結ぶためには何が必要か。それはイエスとつながっていることです。教会を通して、イエスのことば、イエスの体(ご聖体)にあずかる、そうしたことを通して、私たちは弱い者、過ちをおかす者でありながらも実を結ぶことができるのだと思います。

 

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