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082-874-5198

広島県 広島市安佐南区 祇園 3-6-1

hikari@gionkyokai.jp

当教会は、イエズス会管轄の修道会教会です。教会敷地内には、純心聖母会広島修道院、清心幼稚園が有ります。

1949(昭和24)年、日本と同じように戦後の復興に苦労するドイツの人たちから篤志を得て最初の聖堂が建てられました。1963(昭和38)年、聖霊に捧げて献堂された現在の聖堂は2013年、献堂50周年を迎えました。

祗園カトリック教会の特色
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9月24日 加藤信也 神父

September 27, 2017

9月24日  年間第25主日 

 

■マタイによる福音書 20:1-16

(そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。)「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 

 

■加藤神父さまのお話

 今日の福音は「ぶどう園の労働者のたとえ」と題された有名な話です。ぶどう園で働いた者には、夜明けからであろうが、たとえ1時間であろうが、1デナリオン支払われる。皆さん、これをどういう風にお感じになるでしょう。「これは実に、ありがたい話だ」とお感じになった方もあるでしょう。逆に、不平不満をもらす。「私は朝早くから頑張ってきた。人生では若い頃から、こんなに頑張ってきたのだ」とお感じになる方もあるかも知れません。確かにそれも、分からないでもない。しかし、この話の中では、約束は1デナリオン。みんな1デナリオン、というわけですね。

 これは、たとえ話です。では何のための話か、何を教えるために語られた話か。それは、今日の福音朗読の最初の部分にあるように、「天の国」を説明するためのものです。「天の国では、こんなことが起こっている。もしも、あなたがたの間で、こんなことが起こっているとすれば、すでにあなたの周りに天の国が実現している証拠だ」ということでしょう。

 

 今日は「ほほえみの集い」、世間で言うところの「敬老の日」です。この教会に来て、初めて「ほほえみの集い」と聞いて、「一体、何の集いだろう。みんなで、互いに微笑んで挨拶をする会だろうか」などと考えたものです(笑)。年齢を重ねるにつれて、微笑みが満ちて行く。互いに微笑みを交わし合える、そんな風になればいいな、と思います。

 日本では前期高齢者・後期高齢者という呼び方があります。私事ですが、今年めでたく、前期高齢者、最近では「准高齢者」という呼び方も提唱されているようですが、その列に加えられました。加えられると言っても、聖人や福者の列に加えられるのては、ちょっと違います。

 60歳・還暦を迎えた時、あることを思いました。実は私の兄は7年ほど前、60歳で亡くなりました。自分のたった一人の兄弟が亡くなったのだから、悲しかったのはもちろんですが、こんなことも思いました。「60歳で亡くなるというのは、一体どういうことなのだろう。自分が60歳で死ぬとしたら、どのような難しさがあり、どのような思いで死んでいくのだろう」。さらに私は、あと5か月もしますと、66歳になります。実は私の父は66歳で亡くなっているんですね。66になるって、どういうことなんだろう。そこでこの世を去るとしたら、どういう思いを持つのだろう、などと思います。

 

 高齢者になってみて、もちろん、少しでもみんなに好かれる高齢者になりたい、自分よりもさらに高齢の方々に対して、もっともっと(その人の)いいところを見つけられるような接し方ができればなあ、と思ったりもします。旧約聖書に「モーセの十戒」というのがありますね。シナイ山で、神様が石に刻んだ十戒を2枚、モーセに渡した、とあります。十戒の「戒」は「いましめ」、つまり「何々するな」です。ですから十戒には、するな、してはならないという言葉が続きます。これが旧約の神です。では新約、イエスはどう語ったか。イエスは、もちろん「するな」と言ったこともあったでしょうが、(基本的には)「しなさい」と言われます。「あなたの神を愛しなさい」「あなたの隣人を愛しなさい」と。確かに私たちは罪人です。しかし、「罪人であるあなたは、ダメな人」というのではなく、「罪人であるあなたでも、神を愛することができる。隣人を愛することができるはずだ。それをしなさい」とイエスは呼びかけました。

 

 今日、「ほほえみの集い」ということで、我々にとってイエズス会の先輩であるホイヴェルス神父が残した「最上のわざ」、熟年者の祈りという副題がついている祈りをご紹介したいと思います。きっと皆さんの中にも、「その祈りは知っている」「私の好きな祈りだ」という方もおられることでしょう。

 

最上のわざ

 

この世の最上のわざは何?

楽しい心で年をとり、

働きたいけれども休み、

しゃべりたいけれども黙り、

失望しそうなときに希望し、

従順に、平静に、おのれの十字架をになう-。

若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、

人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、

弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること-。

老いの重荷は神の賜物。

古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために-。

おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事-。

こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ-。

手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。

愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために-。

すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。

「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と-。

 

※へルマン・ホイヴェルス神父(1890〜1971)

ドイツ生まれ。1923年来日。1937年、第2代上智大学学長に就任。

 

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