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8月20日 作道宗三 神父

August 20, 2017

2017/8/20 年間第20主日 

 

■マタイによる福音書 15:21-28

  (そのとき)イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

 

■作道神父さまのお話

 今日の福音のお話では、カナンの女がイエスのもとに来て、「悪霊に苦しめられている娘を癒してください」と懇願します。カナンというのは、イスラエルの人々が「約束の地」に移住してくる前に住んでいた先住民、と言っていいでしょう。そしてイエスの時代には、地中海沿岸、ティルスとかシドンとかに多く住んでいたようです。

 カナンの女に懇願されたイエスは、最初は、冷たい、と言いましょうか、距離を置いたようなお答えをされます。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところに遣わされている」。イスラエル人、神から選ばれた民のために、自分は遣わされている、異邦人に対しては、この段階では遣わされていない、というわけです。それでも、この女性がイエスにお願いする。それに対してイエスは、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになります。「子どもたち」とはイスラエルの民、神から選ばれた人々であり、「子犬」は、異邦人。すると女性は、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と謙遜をもって応じます。

 皆さんご承知でしょうが、イスラエルの民は、神から特別に選ばれた、という意識が強かった。そして十戒、律法、色々な言葉を神さまからいただいた。周囲の大きな国々とは違う。小さな国だけど、特別に神さまから愛された民族である。そのような自覚と誇りを持っていました。しかしそれがために少しずつ、他の民族に対する差別意識というか、優越感というか、そのようなものを顕示するようになりました。そうした傾向は、イエスの言葉にも随所に表れていると思います。イエスは弟子たちに、「異邦人やサマリア人の道に行くな」あるいは「異邦人のように行為してはいけない」と言われました。あるいは「愛する」ということについて、「自分の兄弟を愛する。そのようなことは異邦人ですら行っているではないか」というようなことも言われました。

 けれども同時にイエスは、異邦人の世界にも足を運んでいかれました。ティルスやシドンは、イスラエル人にとっては外の国です。そこで出会ったカナンの女性に対して「あなとの信仰は立派だ。あなとの願いどおりになるように」と言われ、娘は癒されます。あの有名な「百人隊長の僕をいやす」(マタイ8:5)話でも、「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば私の僕はいやされます」という百人隊長の言葉に感心し、「はっきり言っておく、イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と言われ、僕を癒されます。イスラエルの人たちと異邦人の間の「壁」。それについて第一朗読で読まれたイザヤの預言書は、次のように語っています。

 

主のもとに集って来た異邦人が

主に仕え、主の名を愛し、その僕となり

安息日を守り、それを汚すことなく

わたしの契約を固く守るなら

わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き

わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。

彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら

わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。

わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

 

 イザヤの預言書はとても長いもので、66章あります。今日の朗読箇所は、その後半、56章の部分です。これはイスラエルの人々がバビロンに連れていかれ、大変な苦しみを耐え忍んだ後、解放され、故郷に帰った後に書かれたものと言われています。

 第二朗読では、パウロのローマの信徒への手紙の、先週に続く箇所が読まれました。パウロは、イスラエル人であり、ファリサイ人であることを、誰よりも誇りに思っている人でした。神の僕として熱心に律法を守り、そのために、「キリストに従うとんでもないやつら」である弟子たちを捕まえ、連行することまでやった人です。そのパウロが、復活のイエスと出会って180度変わり、キリスト・イエズスのために生涯を捧げるようになります。しかし彼は、異邦人に対して宣教しながらも、かつての同胞であるイスラエルの人たちはどうなるのか、心を痛めます。

 

あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。(ローマ信徒への手紙11章)

 

 キリストを救い主として認めないユダヤ人が、異邦人に対して妬みを覚え、イエスのもとに立ち返ってくれるよう、願わずにはいられなかったのです。イスラエルの民の不従順によって、福音は異邦人に宣べ伝えられた。今度は逆に、その不従順によって、イスラエルの民は神に救われる。そうパウロは願いました。神さまの前に、「誇れるもの」などない。人は誇りによって救われるのではない。弱い、罪深い者であって、神さまの憐れみによって救われるのだ。そのようなことをパウロは伝えたかったのでしょう。

 

 こういう話を聞かれて、「それは昔の話でしょう」と思う方もおられるでしょう。しかし現在、私たちの置かれている世界の状況、何か似たところがあるように思います。若い頃、少し勉強しなさい、ということでアメリカに行かせてもらったことがありました。アメリカで坂道を下っていた時、坂の下を歩いている人たちが見えました。色んな髪の毛の色をした人たち。髪だけではなく肌の色も違う。そういう人たちが、何の違和感もなく、肩を並べて歩き、地下鉄に乗り、生活している。「これがアメリカなのか」という思いを抱きました。しかし今、アメリカでは「壁を作ろう」という話が持ち上がっててます。残念なことですが、そうした現実が、私たちの中にもあります。

 日本は、どちらかといえば均質な社会であると言われたりもしますが、近年、海外からの旅行客だけでなく、日本に住む外国の方も、ずいぶん増えてきています。広島市には現在、17,000人以上の外国人の方が住んでおられます。「日本はなかなか難民を受け入れない国である」と言われてきましたが、シリアの難民を留学生として500人受け入れる計画を政府が進めている、という記事も、先日、新聞に掲載されていました。

 しかしこれは、国がどうするということよりも、私たち一人ひとりの課題であると思われます。私たちには自分の生き方、考え方、振るまい方が一番だ、と思い込んでしまう傾向があります。あるいは気の合う人、似たような人と仲良くなりたがる。そうでない人を避けようとする、排除しようとする。無意識のうちに「壁」を作ってしまう。そのような壁は、取り払っていかなければなりません。フランシスコ教皇は、よく言われます。「出ていきましょう」。それは決して街中に出て宣教しましょう、ということではなくて、まず自分の「殻を壊して、自分と違う人を受け入れる人間に変わっていくことであり、そのことが、立派な宣教者になる道ではないかな、と思います。

 

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祗園カトリック教会の特色

当教会は、イエズス会管轄の修道会教会です。教会敷地内には、純心聖母会広島修道院、清心幼稚園が有ります。

1949(昭和24)年、日本と同じように戦後の復興に苦労するドイツの人たちから篤志を得て最初の聖堂が建てられました。1963(昭和38)年、聖霊に捧げて献堂された現在の聖堂は2013年、献堂50周年を迎えました。

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