ADDRESS

082-874-5198

広島県 広島市安佐南区 祇園 3-6-1

hikari@gionkyokai.jp

当教会は、イエズス会管轄の修道会教会です。教会敷地内には、純心聖母会広島修道院、清心幼稚園が有ります。

1949(昭和24)年、日本と同じように戦後の復興に苦労するドイツの人たちから篤志を得て最初の聖堂が建てられました。1963(昭和38)年、聖霊に捧げて献堂された現在の聖堂は2013年、献堂50周年を迎えました。

祗園カトリック教会の特色
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8月13日 加藤信也 神父

August 14, 2017

2017/8/13  年間第19主日

 

■マタイによる福音書 14:22-33

 (人々がパンを食べて満腹した後、)イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

 

■加藤神父さまのお話

 生老病死、という言葉があります。人として免れることのできない4つの苦しみを指す仏教用語です。第一に生まれること、生きること。二番目は老い。三番目は病気。最後に死があげられています。

 確かに誰もがいつまでも若くいたいと願います。できることなら病気とは無縁でいたい。そして、もしもできることなら死を避けたい、いつまでも生きていたい。別な言葉で言えば、「永遠の命」ということになります。「永遠の命」というのは、仏教だけでなく、キリスト教にとっても一大関心事ですね。福音書には、「永遠の命」という言葉が何度もあらわれます。恐らく、人類が誕生以来、求め続けてきたもの、人類の究極の目標、望み、と言ってもいいかも知れません。

 生老病死。この中で興味深いのは、最初の言葉、「生」です。生まれること、生きることは、本当に苦しみなのでしょうか。それについては、こんな説明があります。「生きる上での苦しみというのは、老いや病気、死以外にもある。たとえば、愛する人と別れる苦しみ。憎む人と出会ってしまう苦しみ。求めるものが得られない苦しみ。五官があるために感じてしまう苦しみである」。そのように考えるとすれば、生きることそのものが最大の苦しみなのかも知れません。

 しかし誰もが、死にたくないと思います。それは一体なぜでしょう。生きることが苦しみだけに満ちているならば、死を望むかもしれない。しかし実際には、誰も死など望まない。逆に、「この命を手放したくない」と思います。それは、さまざまな困難がある人生であっても、それらに勝る喜び、幸せを私たちが知っている、それを体験してきたからだと思います。生きることのすばらしさを知っているからこそ、それほどすばらしいものは手放したくない。できることなら、この命が永遠に続いてほしいと望みます。

 では、その「命」は、一体誰のものなのでしょう。私の命は私のもの、誰もがそう考えます。私たちは、「私の命」「私の人生」という言葉をよく使います。しかし、私たちの聖書は、こんな風にも語ります。「ただで受けたのだから、ただで返しなさい」(マタイ10:8)。私たちが持っているものは、すべて与えられたものです。それも、ただで与えられたもの。最も大切な「命」でさえ、神さまから、ある日ある時、一方的に、私たちに預けられたものに過ぎません。私たちが作り出したわけではない。あるいは、どこかで見つけたものでもない。気がついたら、一つの命を与えられていた、一つの人生を歩んでいた、というところでしょう。知らず知らずのうちに「私の命」と思い込んではいるものの、命というものは、私たち一人ひとりに預けられた一方的な贈り物である。預けられたものなら、いつかは返す。それも「ありがとうございました」と言いながら返すのが当然であるとも思われます。

 では私たちの神はどうか。私たちの神は、自己主張しない神です。それどころか、自らの存在を忘れてしまうような神です。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)という言葉が言い表すように、本来ならば私たちが神に対してすべきことを、最も小さな者の一人に譲り渡してしまう、そしてそれを大きな喜びとする神です。そのことによって、神に従う私たち一人ひとりに無償で貸し与えられているものが、一体何なのか、誰のために使われるべきものなのかが明らかになるように思います。

 今日、私たちはミサの中で、合同慰霊の祈りを捧げます。大切な人が亡くなったにもかかわらず、ミサという祝いの形で(追悼の意を)あらわします。それは、私たちにとって大切な人たちに、神さまが命を与えて下さった、そのことによって私たちがその人たちと共に生きる貴重な時間を持つことができたことに感謝するためです。感謝の思いを新たにしながら、このミサを続けましょう。

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