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082-874-5198

広島県 広島市安佐南区 祇園 3-6-1

hikari@gionkyokai.jp

当教会は、イエズス会管轄の修道会教会です。教会敷地内には、純心聖母会広島修道院、清心幼稚園が有ります。

1949(昭和24)年、日本と同じように戦後の復興に苦労するドイツの人たちから篤志を得て最初の聖堂が建てられました。1963(昭和38)年、聖霊に捧げて献堂された現在の聖堂は2013年、献堂50周年を迎えました。

祗園カトリック教会の特色
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7月30日 加藤信也 神父

July 31, 2017

2017/7/30  年間第17主日 

 

■マタイによる福音書 13:44-52△13:44-46
 (そのとき、イエスは人々に言われた。)「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
 《また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。 あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」》

 

■加藤神父さまのお話(幟町教会にて)
 私にとっては、このカテドラルでのミサの司式は初めてです。沢山の方がおられます。最前列には子どもたちが並んでいます。確かに主日のミサだな、と感じています。
 子どもたち、といえば、夏休みが始まったところですね。私も子どもの頃、長い夏休みを過ごしました。覚えているのは、最初のうちは天国、毎日が天国だったこと。そして夏休み最後の日は、地獄、とは言いませんが、大変な思いをしたこと。しかも毎年毎年、それを繰り返していたことです。また、夏休みになると、NHK「子ども科学電話相談室」という番組が放送されます。私は、朝ご飯を食べながら、あるいは新聞を読みながら、この番組を聴いています。子どもたちが(電話で)色んな質問をします。宇宙だとか、昆虫だとか、自然現象だとか、子どもたちは随分、色んなことに気がついているな、と思うのと同時に、さまざまな難問にすぐさま答えられる解答者にも感心させられます。
 ラジオには子どものための相談番組だけでなく、大人のためのテレフォン人生相談といった番組もあります。大人の相談番組の相談内容は、子どものものとは全く違います。子ともたちが自然について、宇宙について色んな質問をするのに対して、大人は、たとえば不倫、離婚、借金、人間関係のもつれなどなど。まさに「問題」ばかりです。昔、神学を勉強していた時のこと、「赦しの秘跡」について勉強する中で、神学の先生が言いました。「我々大人は、罪を犯す。しかし子どもたちは、せいぜい、いたずらをするくらいのことだ」。今日、ミサの前に告解室にいましたが、告解に訪れた子どもは一人もいません。
 子どもたちは将来について、色々な夢を抱きます。しかし成長するにつれて、何の変哲もない人生を歩むようになる人がいる。あるいは逆に、腕白で手のかかった子どもが、周りのみんなをびっくりさせるような大人に成長することもあります。大人になった私たちにも、これから先、人生を変えるような転機が訪れるかも知れません。先が見通せない、これこそが、私たちの人生です。
 今日の福音朗読では、「畑に隠された宝のたとえ」「高価な真珠のたとえ」が語られました。この2つのたとえに共通するのは、見つかったものが、まるで予想もしなかったような価値のあるものだった、という点です。宝、あるいは高価な真珠を見つけた人は、とても驚いたことでしょう。しかし、ただ驚きました、というだけではなく、彼らは見つけたものを、何としても自分のものにしようとします。畑で宝を見つけた人は、持ち物をすっかり売り払って、畑を買います。高価な真珠を見つけた人も、「出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」とあります。しかし、同じマタイ福音書の中には、全く正反対の話も記されています。マタイ19章の「金持ちの青年」と題された箇所です。この青年は、模範的な若者でした。恐らく裕福なだけでなく、幸せな家庭に生まれ育ったのでしょう。青年はイエスとの会話の中で、「掟はすべて守ってきました」と言います。しかし、それほどの青年に、イエスは一言だけ、言うわけですね。「もし完全になりたいなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々にほどこしなさい。それから私に従いなさい」。青年は、「宝」や「高価な真珠」を目の前にしながら、しかも、それを得るために何をすればいいのかもイエスに教えてもらいながら、その言葉に従うことができなかった。それは、すでに手にしているものを手放すことができなかったからです。
 私たちの人生の中にも、何か高価なものを見つけたり、出会ったりしているのに、その価値に気づかずにいることがあります。あるいは気づきながら、すでに手にしているものを手放すことができないこともある。両手がふさがっていては、見つけたものを手にすることはできません。すでに持っているものと、見つけた価値のあるもの、その両方を得ることはできない、というわけです。司祭、修道者への召命について思い起こしていただければ、分かりやすいかも知れません。司祭、修道者になるには、貞潔の誓願を立てます。簡単に言えば、結婚しない、家族を持たないという誓いです。別のいい方をすれば、「私は、イエス・キリストだけで十分です。他には何もいりません」ということです。
 結婚の召し出しも、実は同じです。「この人と結婚する」ということは、「他の人とは結ばれない」ということです。これは子どもにでも分かる非常に簡単な論理です。結ばれるということには、それ以外の可能性を手放すことが含まれています。それ以外の可能性を手放したくないということになると、問題が生じます。
 私たち一人ひとりが手にしている「網」。その網にはすでに沢山のものが入っていて、一杯になっているかも知れません。もう一度、網をうつよりも、ずてに自分の「網」の中に入っているものを調べてみる。その時に、それらの中に「高価な真珠」や「宝」を見つけることがあるかも知れません。それを見つけて、手放しで大喜びするのか、気づかないで埋もれさせてしまうのか、それは私たち自身にかかっていると言えます。

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