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7月23日 加藤信也 神父

July 25, 2017

2017/7/23  年間第16主日 

 

■マタイによる福音書 13:24-43△13:24-30

 (そのとき、)イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

 《イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」

 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

 イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 「わたしは口を開いてたとえを用い、

 天地創造の時から隠されていたことを告げる。」

 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」》

 

■加藤神父さまのお話

 イエスの特徴の一つは、人々に語る時に「たとえ」を用いたことだろうと思います。前の日曜日の福音朗読は「種蒔きのたとえ」でした。そして今日の福音朗読では、「毒麦のたとえ」「からし種のたとえ」「パン種のたとえ」が語られ、なぜ「たとえ」を用いて話すのか、その理由が語られます。そして最後に、「毒麦のたとえ」が説明がされます。このようにしてイエスは、さまざまな「たとえ」によって「近づいた」とされる「天の国」を説明します。

 マタイ福音書では「天の国」という言葉が使われますが、他の福音書では「神の国」という表現も用いられていますが、イエスの登場と同時に、私たちは既に「天の国」を生きはじめています。その具体的な表れが「奇跡」です。奇跡とは、人の目には不可思議で超自然的な出来事と見えるわけですが、別な見方をすれば、イエスの周りに垣間みることのできる「天の国」の具体的な姿です。「天の国」には、病も障がいもなければ、飢えや死も存在しない。あるのはただ、永遠の喜びだけ。そんな「天の国」がイエスの登場と共に、人々の前に見え隠れするようになったわけです。

 「神の国の完成を待ち望みながら、主の祈りを唱えましょう」。主の祈りの前に、このような呼びかけが為されます。ということは、「神の国」は、まだ完成していない。すでに表れてはいるが、まだ完成には至っていない。これが「天の国」「神の国」です。

 今日の福音でも、「天の国は次のようにたとえられる」という前書きと共に、イエスは私たちに「天の国」を説明します。畑に良い種を蒔いたのに、実ってみれば、その中には毒麦も混じっていた。もしかしたら教会の中にも、麦と毒麦が混在しているのかも知れません。

 「神父さん、あの人は毒麦です。抜き取ってください」。そんなことを言われた経験があります。あるいは「抜き取る作業を私がやりましょう」と言われたこともあります。毒麦の存在が許せない。すぐに抜き取らなければ気が済まない。これに対して、毒麦を抜き取るどころか、良い麦を後に残して、毒麦中に蒔くのがイエスのやり方です。それは次のようなところにも表れています。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」「私が来たのは、正しい人を招くためではなく罪人を招くためである」。これがイエスの思いであり、彼の宣教方法だったと言えます。

 教会は罪人の共同体です。たとえ私たちが今、良い麦であったとしても、たった一本の毒麦を抜き去ろうととした途端に、私たち自身が毒麦へと変わっていってしまうかもしれない。毒麦を抜くという行為は、イエスの最も嫌った「裁き」であるからです。「裁き」は神の仕事です。人を裁くのは、神の領域に立ち入ることです。イエス自身は、「私は誰も裁かない」とまで語っています。私たちも、イエスと同じように、また「主の祈り」の中にあるように、「私たちの罪をお許しください。私たちも人を許します」、そのように祈るべきたのでしょう。私たちの教会は、旅する教会です。確かに、内に様々な問題を抱えていますが、苦しみながらではあっても、「天の国」の完成へと、模索しながら向かっていく、一艘の箱船です。私たちは互いに許し合いながら、そして受け入れ合うために、この箱船に乗り合わせています。それこそが、私たちキリスト者がキリスト者であるゆえん、私たちのアイデンティティである。そのことを思い起こしたいと思います。

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祗園カトリック教会の特色

当教会は、イエズス会管轄の修道会教会です。教会敷地内には、純心聖母会広島修道院、清心幼稚園が有ります。

1949(昭和24)年、日本と同じように戦後の復興に苦労するドイツの人たちから篤志を得て最初の聖堂が建てられました。1963(昭和38)年、聖霊に捧げて献堂された現在の聖堂は2013年、献堂50周年を迎えました。

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