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082-874-5198

広島県 広島市安佐南区 祇園 3-6-1

hikari@gionkyokai.jp

当教会は、イエズス会管轄の修道会教会です。教会敷地内には、純心聖母会広島修道院、清心幼稚園が有ります。

1949(昭和24)年、日本と同じように戦後の復興に苦労するドイツの人たちから篤志を得て最初の聖堂が建てられました。1963(昭和38)年、聖霊に捧げて献堂された現在の聖堂は2013年、献堂50周年を迎えました。

祗園カトリック教会の特色
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7月16日 加藤信也 神父

July 19, 2017

017/7/16 年間第15主日 

 

■マタイによる福音書 13:1-9

 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

 

■加藤神父さまのお話

 私は今日も皆さんの前に出て、こうして話しをしています。緊張しています(笑)。緊張するような場であるならば、準備をします。神父になったばかりの頃に送られた教会は、大きな教会でした。大きなミサになれば1,000人以上の人が集まる。クリスマス・イヴともなれば、NHKがやってくる。テレビカメラが回っているな、と思いながら話さなければなりません。

 イエスも、人前で話しました。それも「群衆」と言われるほどの沢山の人たちの前で話されました。きっと、緊張したことでしょう。だとすれば、イエスも十分に準備したことでしょう。では、イエスはみんなの前で話すために、どれくらいの準備をしたでしょう。30年という長い長い準備をしました。イエスが活動を開始したのは、30歳の頃だったといわれました。30年という長い準備、長い沈黙の後、最初に語られた言葉は、とても短いものでした。

 

 「悔い改めよ。天の国は近づいた」。

 

 それだけ、です。この本当に短いセッセージをみんなに伝えるために、この世に現れました。

 このメッセージの中心は、「天の国」です。(マタイは「天の国」という言葉を用い、他の福音記者は「神の国」と言ったりしますが)。当然、その後のイエスの行動も、「天の国」についてついて知らせるためのものでした。イエスが語ったたとえ話は、しばしば次のような言葉で始まります。「天の国は、次のようなものである」。この前置きの後に、イエスは「天の国」について、言葉で伝えようとされました。またイエスは、さまざまな奇跡を行いました。奇跡とは何なのか。実は奇跡も、「天の国」とはいったいどんなものなのかを、人々に具体的に見せる、体験させるものでだったといえます。

 

 今日の福音朗読では、「天の国」は種蒔きのたとえで語られます。種をまく人が種蒔きに出かけました。種が落ちた先は4か所。そのうちの3か所は、道ばた、石だらけで土の少ないところ、茨の間です。結局、これらの場所では、種は実を結びませでした。ではなぜ、収穫が望めないような場所に種を蒔くのか。今日のたとえの中には「蒔く」という言葉以外に、「落ちる」という言葉も使われています。イエスの時代の種蒔きの方法は、私たちが行うものとは、かなり異なっていたようです。今日の「聖書と典礼」の脚注には、「当時の種蒔きは、種を手で地面一面に蒔き散らし、それから耕して種に土をかぶせたらしい。そのため無駄になる種も多かったようである」と書かれています。イエスの時代の種蒔きについての別の解説も見つけました。「種蒔きについては、畑という仕切りはなく、まず種を蒔いてから、鉄のピンのようなもので土地を耕す」。まあ、耕すというよりは、地面に傷をつける、という感じですね。しかも、畑という仕切りはない。とにかく、あたり一面に種を蒔き散らす感じですね。収穫を第一に考えるなら、こんな種蒔きはしない、とも思います。

 しかし、こんな種蒔きこそ、イエスの種蒔きです。イエスいとう人は、ほんのわずかな可能性に賭けて、種を蒔き続けます。「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」者たちにも教え続けます。今日の第一朗読、イザヤ書には、こうあります。

 

雨も雪も、ひとたび天から降れば

むなしく天に戻ることはない。

それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ

種蒔く人には種を与え

食べる人には糧を与える。

そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。

それはわたしの望むことを成し遂げ

わたしが与えた使命を必ず果たす。

 

 恐らくイエスの「種蒔き」の裏にある思いも、これと同じものだったでしょう。収穫が得られない場所であっても、死にいたるまで、福音の種を蒔き続けた、そんなイエスの心のうちを慮るような(イザヤの)言葉です。

 

 種は、その内側に「いのち」をはらんでいます。今日の福音に続く箇所には、「からし種のたとえ」が記されています。どんな種よりも小さな「からし種」が、空の鳥が来て巣を作るほどの大きな木になる。私たちの目から見れば不思議とも思える生命力によって、種は驚くほど成長します。しかし種は、確かに内側に「いのち」を宿してはいますが、それだけで成長するというものではありません。土、水、空気、太陽など多くのものを必要とします。それらが与えられた時、つまりは「共同作業」の結果として、豊かな実りがもたらされます。

 イエスが宣教の最初に語った言葉、「悔い改めよ。天の国は近づいた」。ここでまず最初に語られているのは、「悔い改め」、別の言葉で言うなら、我々が人生の軌道修正をする、ということだと思います。この軌道修正をするために、イエスは、こぼれるほどにあふれる天の恵みを約束します。私たちが豊かな実りをもたらすかどうか、それはひとえに私たち一人ひとりの「悔い改め」にかかっている、というわけです。この「悔い改め」こそが、イエスから渡された、天国への切符である。そのことを忘れないでいたいと思います。

 

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