ADDRESS

082-874-5198

広島県 広島市安佐南区 祇園 3-6-1

hikari@gionkyokai.jp

当教会は、イエズス会管轄の修道会教会です。教会敷地内には、純心聖母会広島修道院、清心幼稚園が有ります。

1949(昭和24)年、日本と同じように戦後の復興に苦労するドイツの人たちから篤志を得て最初の聖堂が建てられました。1963(昭和38)年、聖霊に捧げて献堂された現在の聖堂は2013年、献堂50周年を迎えました。

祗園カトリック教会の特色
Please reload

最新記事

6月25日 加藤信也 神父

June 28, 2017

2017/6/25  年間第12主日 


■マタイによる福音書 10:26-33
 (そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。
  だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」


■加藤神父さまのお話
 私たち一人ひとりが例外なく、一つの命を持っています。命を与えられたその瞬間から、私たちは成長を始めていきます。
 成長を測る一つの方法に、母親との距離によってそれを知る、ということがあるとも言われます。生まれたばかりの赤ちゃんは、お母さんにぴったりと寄り添っています。距離がないわけですね。そんな赤ちゃんも、大きくなるに従って歩けるようになる。歩く、というのはそもそも、母親から離れていく、ということでもあります。あるいは自由に言葉を操れるようになる、そのようにして、次第に親との距離を広げていきます。
 私たちもキリスト者として生まれました。キリスト者として生まれるとは、神さまの子どもになる、ということです。子どもであるなら、神様さまの腕の中に抱かれる。その温かな体験を持っているかどうか。あるいは、ただ抱かれるだけでなく、我々の側から大切なことを、神さまに伝えているかどうか、そのことも問われます。もし、大切なもの、たとえば喜びを神さまに伝えるなら、その喜びはもっともっと大きなものになっていくでしょう。もしもそれが悲しみであるなら、オブラートで包むように、神さまはそれを受け止めてくださる。これが神さまだと思います。
 私たちが子どもだった頃、そのような役割を果たしてくれたのは、父親や母親でした。私たちの誰もが、そのような温かさの体験を通して成長してきました。では、子どもの頃、うれしいこと、悲しいことを親に話したのと同じように、今私たちは、喜び、悲しみ、苦しみを神さまに伝えているかどうか。それが祈りであり、私たちの信仰です。「神さまは私にとって、とても大切な方です」と言いながら、何も(神さまに)伝えていない、口もきかない、そんなことがないのかどうか、振り返ってみたいと思います。
 小さな子どもを見ていると、親が近くにいないと怖がります。すぐに、お母さんを探し始めます。では、神さまの子どもとなった私たちは、いつも神さまが隣にいて下さる、と感じているでしょうか。
 イエスの弟子たちの中でも中心的な役割を果たした十二使徒も、実は恐れました。イエスか十字架の上で殺された後、彼らは恐れ、怖がりました。彼らはまるで孤児のように感じたことでしょう。もう誰も自分たちを守ってはくれない。それどころかユダヤ人たちは自分たちを殺そうとしている。そう感じた弟子たちは、家の戸に鍵をかけ、隠れました。しかしそこに、「あなたがたに平和があるように」と呼びかけながらイエスが現れました。弟子たちに心の平和がなかったからこそ、イエスは「あなたがたに平和があるように」と呼びかけられました。
 今日のミサのテーマ、それは「恐れ」です。ミサの中で繰り返される言葉の一つに「平和」があります。代表格は「平和のあいさつ」でしょう。ミサの最後には、司祭が「行きましょう、主の平和のうちに」と、派遣の祝福を行います。この言葉に送られて、私たちは教会の外、社会の中に出て行きます。主の平和を運んでいきます。信仰を一本の木にたとえるとするなら、私たちは洗礼を受けた時、神さまから一本の木の苗を受け取りました。この木から実る果実の一つは、「平和」です。私たちの信仰という木がもしも、「平和」という果実を実らせないのであれば、私たちがその木を今までどのように育ててきたのかを、振り返ってみなければならないでしょう。
 今日の福音(朗読)は、イエスが弟子たちを宣教に送り出す場面です。イエスは弟子たちに「おそれるな」と呼びかけます。おそれて隠れているのではなく、信じていることを、屋根の上に登って言い広めなさい、叫びなさい、とイエスは呼びかけます。あなたのすべてを私は知っている。だから何も恐れるな、とイエスは呼びかけます。
 私たちの心の中に、もし「おそれ」があるとするなら、それをもう一度、見つめ直してみましょう。もし恐れなどない、というのなら、なぜ大胆に福音を宣べ伝えていないのか。
 「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決し天の国に入ることはできない」(マタイ18.3)とイエスは語っています。この聖堂の正面には十字架が掲げられています。イエスは両手を広げて十字架につけられています。キリストは私たち一人ひとりに向かって、両手を広げています。そのキリストの腕の中に、私たちが小さな子どものように飛び込んでいけるかどうか。今、私たちに問われているのは、その一点です。

Share on Facebook
Share on Twitter
Please reload

ソーシャルメディア
Please reload

アーカイブ
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square