6月25日 加藤信也 神父

2017/6/25  年間第12主日

■マタイによる福音書 10:26-33  (そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。   だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

■加藤神父さまのお話  私たち一人ひとりが例外なく、一つの命を持っています。命を与えられたその瞬間から、私たちは成長を始めていきます。  成長を測る一つの方法に、母親との距離によってそれを知る、ということがあるとも言われます。生まれたばかりの赤ちゃんは、お母さんにぴったりと寄り添っています。距離がないわけですね。そんな赤ちゃんも、大きくなるに従って歩けるようになる。歩く、というのはそもそも、母親から離れていく、ということでもあります。あるいは自由に言葉を操れるようになる、そのようにして、次第に親との距離を広げていきます。  私たちもキリスト者として生まれました。キリスト者として生まれるとは、神さまの子どもになる、ということです。子どもであるなら、神様さまの腕の中に抱かれる。その温かな体験を持っているかどうか。あるいは、ただ抱かれるだけでなく、我々の側から大切なことを、神さまに伝えているかどうか、そのことも問われます。もし、大切なもの、たとえば喜びを神さまに伝えるなら、その喜びはもっともっと大きなものになっていくでしょう。もしもそれが悲しみであるなら、オブラートで包むように、神さまはそれを受け止めてくださる。これが神さまだと思います。  私たちが子どもだった頃、そのような役割を果たしてくれたのは、父親や母親でした。私たちの誰もが、そのような温かさの体験を通して成長してきました。では、子どもの頃、うれしいこと、悲しいことを親に話したのと同じように、今私たちは、喜び、悲しみ、苦しみを神さまに伝えているかどうか。それが祈りであり、私たちの信仰です。「神さまは私にとって、とても大切な方です」と言いながら、何も(神さまに)伝えていない、口もきかない、そんなことがないのかどうか、振り返ってみたいと思います。  小さな子どもを見ていると、親が近くにいないと怖がります。すぐに、お母さんを探し始めます。では、神さまの子どもとなった私たちは、いつも神さまが隣にいて下さる、と感じているでしょうか。  イエスの弟子たちの中でも中心的な役割を果たした十二使徒も、実は恐れました。イエスか十字架の上で殺された後、彼らは恐れ、怖がりました。彼らはまるで孤児のように感じたことでしょう。もう誰も自分たちを守ってはくれない。それどころかユダヤ人たちは自分たちを殺そうとしている。そう感じた弟子たちは、家の戸に鍵をかけ、隠れました。しかしそこに、「あなたがたに平和があるように」と呼びかけながらイエスが現れました。弟子たちに心の平和がなかったからこそ、イエスは「あなたがたに平和があるように」と呼びかけられました。  今日のミサのテーマ、それは「恐れ」です。ミサの中で繰り返される言葉の一つに「平和」があります。代表格は「平和のあいさつ」でしょう。ミサの最後には、司祭が「行きましょう、主の平和のうちに」と、派遣の祝福を行います。この言葉に送られて、私たちは教会の外、社会の中に出て行きます。主の平和を運んでいきます。信仰を一本の木にたとえるとするなら、私たちは洗礼を受けた時、神さまから一本の木の苗を受け取りました。この木から実る果実の一つは、「平和」です。私たちの信仰という木がもしも、「平和」という果実を実らせないのであれば、私たちがその木を今までどのように育ててきたのかを、振り返ってみなければならないでしょう。  今日の福音(朗読)は、イエスが弟子たちを宣教に送り出す場面です。イエスは弟子たちに「おそれるな」と呼びかけます。おそれて隠れているのではなく、信じていることを、屋根の上に登って言い広めなさい、叫びなさい、とイエスは呼びかけます。あなたのすべてを私は知っている。だから何も恐れるな、とイエスは呼びかけます。  私たちの心の中に、もし「おそれ」があるとするなら、それをもう一度、見つめ直してみましょう。もし恐れなどない、というのなら、なぜ大胆に福音を宣べ伝えていないのか。  「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決し天の国に入ることはできない」(マタイ18.3)とイエスは語っています。この聖堂の正面には十字架が掲げられています。イエスは両手を広げて十字架につけられています。キリストは私たち一人ひとりに向かって、両手を広げています。そのキリストの腕の中に、私たちが小さな子どものように飛び込んでいけるかどうか。今、私たちに問われているのは、その一点です。

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