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6月4日 加藤信也 神父

June 5, 2017

2017/6/4  聖霊降臨の主日(祭日) 

 

■ヨハネによる福音書 20:19-23
 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 

■加藤神父さまのお話

 聖霊に捧げられた教会である祇園教会にとって、今日は特別な日です。

 ミサの初めに、神の時代、イエスの時代、そしてイエスが昇天した後の聖霊の時代、あるいは教会の時代、というような話をしました。「父と子と聖霊」。私たちの信仰生活と強く結びついた言葉です。しかし、「(父と子はわかるが)聖霊が、よくわからない」という言葉も時折、耳にします。

今日の「聖書と典礼」を見ると、祈りや朗読に共通する、ある一つの言葉に気付きます。まずの集会祈願。「あなたは諸国の民を一つの聖なる教会に集めてくださいます」とあります。第一朗読には「一同が一つになって集まっていると(聖霊が下った)」と記されています。第二朗読では、「体は一つであるように」「一つの霊によって」「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」と、「一つの、同じ」が強調されています。そして福音朗読には、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と書かれています。弟子たちは恐れながらも、身を寄せ合って、一つになっていた。聖霊降臨の主日のミサの特徴は、「一つ」「一つになる」ということだと思います。

イエスの弟子たちの中でも、「使徒」と呼ばれた12人は、文字通り、イエスと寝食を共にしたした。マルコ3章に、「12人を選ぶ」という箇所があります。そこにはイエスが12人を選んだ理由が幾つか書かれています。その一番最初に書かれている理由は、「彼らを自分のそばに置くため」です。別の言い方をすれば、12人がイエスのそばで、一つになっている、そのことに意味がある。何をするかではなく、ただ一つになっていること自体に意味がある、そんなふうにも感じられます。

使徒たちは、イエスがなさった様々な奇跡を目の当たりにしたはずです。病人を癒し、死者をよみがえらせ、5,000人の腹を満たし、水の上を歩き、嵐を鎮める……。そんなイエスの姿をまのあたりにした使徒たちは、「イエスに不可能はない。望めば何でもできる」と確信したはずです。どんな困難な状況も覆す、イエスのそんな姿に酔いしれたことでしょう。ところが、あろうことか、イエスは何の抵抗もせず、あっけなく捕らえられてしまい、その翌日には死刑囚として処刑されてしまった。使徒たちの心の中には「そんな馬鹿な」悲痛な思い、あるいは「イエスとは一体何者だったのか」という思いが広がったかもしれません。また「イエスが殺されたとすれば、次は俺たちも……」という恐れがあったことでしょう。ですから、使徒たちは、人目を避け、鍵をかけて家の中に閉じこもるしかなかった、といったところでしょうか。また使徒たちは、心に傷を負っていました。それはイエスを理解し得なかった。それどころか裏切ってしまった、そんな「臆病者の傷」を負っていたことでしょう。

2,000年前に、地球の片隅で、たった一人の男が始めた運動。それは彼の死と共に消えていってしまったかのようでした。消えていって当然、かも知れません。しかし、裏切り者、臆病者の集団だった使徒たちが、どうしたわけか動き出した。そして彼らのほどんどが、殉教していくほどに変わってしまった。あるいは、変えられてしまった。この不思議な出来事を、一体どのように説明すればいいのか。今では世界に13億人とも言われるカトリック信者がいます。プロテスタントや正教会の信者を合わせれば、世界にどれくらいのキリスト者がいるでしょう。福音書には「群集」という言葉がしばしば登場しますが、現代のキリスト者は「群集」どころの数ではない。イエスの死と共に消えていくどころか、今、世界に広がる教会となったこと、そのことこそ、誰も否定することのできない、大きな大きな奇跡だと思います。では、この奇跡には、種も仕掛けもないのかといえば、そうではない。種も仕掛けもちゃんとある。それが聖霊降臨という出来事です。

聖霊は、「モノ」ではなく「人」の上に降ります。そして聖霊は降った人の中で働き、その人を動かします。聖霊は今日ここに集う、ほとんどの人たちにも降っています。洗礼が、キリスト者としての誕生日だとすれば、堅信はキリスト者の成人式にたとえられます。洗礼、堅信式には、代父、代母が必要ですが、代父、代母になれるのは、堅信を受けた人(聖霊が降った人)に限られます。つまり大人だけが、代父、代母になるわけです。堅信の秘蹟を受けた人、聖霊の恵みをいただいた人が、その後、どのような道を歩んでいくのか。子どもは親から、どのような道を歩むのかを教わります。つまり、子は与えられる側、守られる側であり、親(大人)は与える立場、守る立場にあります。大人には責任があります。

私たち一人ひとりが、与えられる者から与える者に変わっていく。守られるものから、守るものに変わっていく。そのように大人のキリスト者へと成長いけるように祈り求めながら、聖霊降臨のミサを続けましょう。

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祗園カトリック教会の特色

当教会は、イエズス会管轄の修道会教会です。教会敷地内には、純心聖母会広島修道院、清心幼稚園が有ります。

1949(昭和24)年、日本と同じように戦後の復興に苦労するドイツの人たちから篤志を得て最初の聖堂が建てられました。1963(昭和38)年、聖霊に捧げて献堂された現在の聖堂は2013年、献堂50周年を迎えました。

ADDRESS

082-874-5198

広島県 広島市安佐南区 祇園 3-6-1

hikari@gionkyokai.jp