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5月14日 加藤信也 神父

May 26, 2017

5月14日 復活節 第5主日

 

■ヨハネによる福音書 14:1-12
 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。

 

■加藤神父さまのお話

復活節も、今日は第5主日となりました。復活節のミサでは、ヨハネ福音書が読まれます。ヨハネ福音書には、イエスがパンと魚を増やし、男たち5,000人を満腹させた奇跡物語が記されています(ヨハネ6章)。その後、イエスは(奇跡によってではなく)言葉によって群集や弟子たちと話し合います。その結果はどうであったか。群集たちはもちろん、弟子たちの多くが、「実にひどい話だ。だれが、こなに話を聞いていられようか」こんなひどい話、誰が聞いていられようか」とつぶやき、イエスイエスのもとを去っていきます。後に残されたのは、十二使徒と呼ばれる弟子たちだけだったようです。これがイエスの公生活の後半です。

 

今日の福音朗読箇所は、最後の晩餐でイエスが使徒たちと語り合う場面です。

この話の中には、二人の弟子の名前が記されています。一人はトマス。トマスはヨハネ福音書20章にも登場し、非常に面白い役割を果たします。他の弟子たちが「私はたち主を見た」と言うと、その場にいなかったトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、(中略)信じない」とこたえます。ところが、8日後、弟子たちの前に現れたイエスから、「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい(後略)」と言われると、トマスはイエスに触れることなく、「わたしの主、神よ」と信仰を宣言します。そしてこの物語は、「私を見たから信じたのか、見ないのに信じる人は幸いである」というイエスの言葉で結ばれます。

見にないのに信じる者は幸いである。しかし同時に、見たい、触れたい、そうやって確認をしたい、これもまた人情だと思います。誰にでも、見たり触れたりして、イエスを確認したい。そんな願望があるのではないでしょうか。

もう一つの登場人物はフィリポも、「「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」といいます。示してくれ。そうすれば信じられる、ということなのでしょう。私も、神父ににってから何度か、「神様をここに連れてきてください。そうすれば信じます」と言われた経験があります。

私たちの世界は、確認を大切にする世界です。さまざまな形で、私たちは確認をします。具体的には、見て、確認する。触れて、確認する。聞いて、確認する。しかし考えてみれば、見ることのできるもの、触れることのできるもの、それらは「信じる」必要がないのではないか。確認したその時から、それらは「信じる」対象ではなく、「事実」として存在し始める、と言ってもいいでしょう。

それに対して、見通すことができない。よくわからないもの対しては、人は不安を感じます。暗闇の中では、誰もが不安を抱くでしょう。あるいは、移り変わっていくことがらも、人を不安にさせます。変わっていくからこそ、自分の手のうちに、しっかりと握っておかなければ、今を大切にしなければ、と考えたりもします。

私たちがよく使う言葉、「愛」。愛というものは、人と人とを結びつけます。しかしこの「愛」を、いつまでも確かな、いつまでも変わらないものとして繋ぎ止めておくのは、決して容易ではありません。「心変わり」という言葉があるように、心は変わっていきます。だからこそ、愛は育てなければならない。育てなければ消えてしまうかも知れない。私たちは愛のある関係、愛のある生活が、どんなに豊かなものなのか、逆に愛のない生活、愛のない人間関係が、どんなに殺伐としたものであるかよく知っています。だからこそ、愛を大切にします。

命も同じです。私たちとって確かなのは、どんなに頑張ってみても、生まれてから今に至るまでの数十年間の命の営みだけです。生まれる前のことは、誰にもわからない。いつか、すべての人に等しく訪れる死。死を迎えたその後、我々は一体どうなるのか、どこへ連れていかれるのか、誰にも分からない。これは確認できないからこそ、信じるしかない、という領域に属することだと思います。この世で命を与えられた間だけが、まるでスポットライトを当てられているように、私たちに姿を見せている。イエスは、この闇の部分に光を当てようとし、闇は、光を拒み続けてきた。ともいえるでしょう。

今日の福音朗読の冒頭の箇所を、皆さんはどんな思いで聞かれたでしょう。この箇所は、イエスが私たちに、死後の世界について語っておられるという捉え方もできるでしょう。死という不気味なものを目の前にした私たちに、イエスは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われます。では一体、神の何を信じればいいのか。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。(中略)行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」。私たちがそれを信じようが信じまいが、これが、イエスが私たちに伝えたかった、今も伝えようとしているメッセージです。

私たちの命、存在は、死によっては終わらない。私たちカトリック信者にできるのは、ただ一つ、このイエスの言葉に対して、アーメン、そうです、そうでありますように、と応えることだけであるように思います。それがイエスの言葉であるならば、それがイエスの言葉であるからこ、それは暗闇の中の光となり、私たちが(自分の命の行方を)見通せないにも係わらず、大きな安心であり、大きな喜びである、と言えるのではないでしょうか。

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